思い出めぐり
祖父は歯医者で、戦時中にシンガポールで軍医をしていた。
シンガポールでは長い時間過ごしたようで、母はその時に生まれたので、留守番してる時に生まれた留美と名付けられた。
祖父は89歳で亡くなったが、その数年前に、シンガポールへ親戚一同を連れて行ってくれた。祖母はその数年前に亡くなった。
思い出の場所をバスから眺めながら、とても嬉しそうにしていた。
その横顔を私は眺めながら、何となく当時好きだった人がこの土地にいたんだろうな、と思った。
祖父はこんな年寄り見たことないというほど元気な人で(母にそっくり)100歳は間違いないと思っていたが祖母が亡くなった後の、今のバンブーで一人暮らしの時代はすっかり意気消沈し、辞めてたタバコも吸い始めていた。亡くなる前まで歯医者は続けていたけど、男の人は、奥さんが亡くなるとダメなんだというのは本当だと思った。
この時、ホテルで出た海鮮料理で、従兄弟の二人が翌日顔が誰かわからないくらいパンパンに腫れて観光に行けなかった、という強烈な思い出だけが私には残った。二人がアレルギー体質だったのか?たまたま食べた海鮮がダメだったのか?
私は死ぬ前にどこか行きたい場所はと考えた時に、ニセコの山に行きたいと思った。
20代前半、私は4シーズン北海道のニセコの山で働いていた。その後も、冬になればニセコの山をスノーボードで滑った。滑りに行ったというより、食べに行ってたかもしれない。
死ぬ前に、その頃にはもう無いかもしれないけど、グラウビュンデンのケーキとミルク工房のソフトクリームを食べたい。札幌のジンギスカンとお寿司も出来れば食べたい。私の欲求は食べたいことばかりだった。
とにかくニセコの土地が好きで、景色を見るだけで幸せな気持ちになれる場所。地元以外で二つめのふるさとというか、そういった場所は誰にでもあるんだろう。それでふと今日は祖父の事を思い出した。
北海道に住んでいる時は、たまに大阪の王将の餃子や、551の蓬莱の豚まんや、マクドナルドが急激に食べたくなり、ごちゃごちゃした関西の都会が恋しくなったりもした。
離れてみると、関西の良さもひしひしと感じる。
ニセコに本気でこのまま住もうか?と、考えていたが、その当時は寮住まいでピアノが弾ける環境に無かったことと、音楽に未練があったので、関西へ戻って専門学校へ入学することにした。
それが無かったら、夏はニセコでラフティングのガイドを目指してたと思う。
体力の衰えを感じる日々なので、筋肉を維持して、これから先も何歳になっても行きたい場所に行ける(食べる)準備をしたいと思う。
蝦夷富士とも呼ばれるニセコの羊蹄山。
ニセコに高く聳え立ち、富士山に似ている。
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